こんにちは。まいんどあぷりです。
今日は「他は是れ吾にあらず(たはわれにあらず)」という禅語をご紹介します。
一見「当たり前じゃん」と思われそうな禅語ですが、しっかりと意味とエピソードがあるんです。
それではスタート。
「他は是れ吾にあらず(たはこれわれにあらず)」の意味は
この禅語の意味は「他人は他人、自分は自分」といった自己中心的な意味ではありません。
禅の修行の中で、修行を実践するのは他人ではなく自分自身、学ぶ事や経験することも他人ではなく自分自身が行わなければ意味がないという意味の禅語です。
禅は実践を重んじます。いくら先人の書籍などを参考にして知った気になったとしても自分で経験することに比べればその経験の濃さは全く異なるものになります。
経験した人の言葉の重みって思いですよね。
また、この禅語には「今、自分が出来る精一杯のことをする」という意味もあります。
毎日が修行である、1日だってどうでもいい日などなく、失敗しても成功しても実践することが修行であるということを言われているようですね。
禅語の由来
この禅語は道元禅師が宋に留学中、あるひとりの典座(てんぞ)との出会いが由来だと言われています。典座とは禅のお寺で食事の世話をする炊事係の偉い人の事です。
道元は宋の天童景徳寺に修行に行っていた時のことです。年老いた典座が外でキノコを干していたのをみて、その老体の典座にこういいました。
「そんなことはご自身でなさらずに、もっと若い者にやらせてはどうですか?」
道元はもちろん心配してその言葉を典座にかけたのですが、老師は鋭い口調でこの禅語を道元に伝えました。
「他是不吾(他は是れ吾にあらず)」
他人にその仕事をさせたのでは、自分が仕事をしたことにならないということを道元に伝えたのです。
極めて当たり前のように聞こえるでしょうが、禅宗では全ての仕事、作業がその人の修行なのです。
老師は自分がやるべき仕事を自分の修行として捉えていたのですね。
ビジネスシーンでの活用方法
自分がやるべき仕事を人に丸投げしていませんか?
もちろん人によってはやるべき仕事を選別して、人ができることは割り振っていかないと、仕事が進まないことがボトルネックになって進捗が遅くなってしまうこともあります。
なので、人に仕事を割り振るという事自体は悪い事ではありません。仕事を割り振ることで他のメンバーも知見が深まり、より仕事ができるようになるでしょう。
しかし、人に割り振っていいものと、自分が最後までやるべきことが、仕事の中にはあるように思います。そういったものまで他人に投げてしまうと、果たしてあなたにその責任が取れるのでしょうか。
また、自分がやるべき務めとはなんなのか、どのような行動、実践が自分を作り上げるのか、日々しっかりと考え行動することが、自己実現の為の道のりの長い近道のように感じます。
典座の老師のように、自分の務めとしての仕事(もちろん老師は修行の身なので、修行としての作務ですが)が必ずあるはずです。
その仕事は最後まで自分でやり遂げるように努めましょう。
結果、やり遂げたという自信が自分の中に湧き出てくるはずです。
まとめ
この禅語はある意味「他人は他人、自分は自分」という言葉を素直に表現しているかもしれません。
その言葉の冷酷さ、残酷さの中に、人に対する温かみ、愛情のようなものを感じませんか?禅語にはそんな二面性を感じるのです。
学生時代の厳しかった先生の言葉が、結局最後まで自分を支える言葉だったりもします。その時は「なにくそー」って思ったりするんですけどね。
禅の言葉にはそういった「あたたかみ」の感覚を覚えます。
今日はこの辺で。最後までありがとうございました。